脳内会議

さて、ここでは自身の研究を振り返って考える機会にした。

丁度邪魔も入らなそうである。


ゲームはもはや他のコンテンツに負けることはなくなった。

小説では体感できない存在感、 絵画にはできない躍動感、 

映像では味わえない没入感を持っている。 

そして何より見る人が自由になった。

一気に進める人もあれば 一点にとどまりその場所を楽しむ人まで

これでは、中毒者も現れるわけだ 。

ゲームに関係してゲーム中毒についての記事を見た。

中毒者はゲームの中では自分の好きなことができ、そのフィードバックの速さに埋没している、というのが印象的だ。

それは形がある空想に過ぎず、自身が一番羽を伸ばせる場所が偶々ゲームの中であった、ということに過ぎないのではと考えた。

そう空想だ。ゲームのタイトルを無意識に幻想という言葉を用いていたのはここではないだろうか。

直感的に関連づけて後からその意味を考えるのが特段苦手であるが、少しだけ答えに近づきそうだ。

私は無意識にゲームにおける非現実と自身の空想は共通していると考えていた。

ゲームにおける非現実は実は自身の空想や幻想と同じ性質があり、それが主観的であるというわけだった。

つまりゲームの本質的な魅力は自身の空想や幻想と同じくらい近いことであるが答えなのではないだろうか。

それを表現するならば見た人物、触れた人物がゲームが実は他の全ての鑑賞物より身近にあるのだということを気づくことができれば作品としての成功ではないか?

空想世界を表現したものがゲームであるというならば、マップ探索のみに留めるのは少しだけ勿体ない。

ならば一定時間の経過などで現実世界に似た場所に移動させられるような仕掛けを加える事が重要になってきた。

ストーリーは元々現実に似た場所にだけ配置すると決めていたが、一層の事現実にも仕掛けてしまおうか。


これで考えが纏まりを見せた。

研究における答えは

ゲームとは他の鑑賞物に比べて空想や幻想に近い程身近である媒体なのだという事

制作する作品は

ゲームと自身の幻想、空想を結びつけるような作品であるという事

そのためには

幻想的な世界、現実的な世界、また現実に仕掛けを施す必要があるという事

現実の仕掛けで考えているものは、展示空間の至る所にヒント、もしくは言葉を書いたものをこっそり隠しておく。机の裏や暗幕の隅、はたまたパソコンの後ろなどにである。

マップ探索というのは実は表面的なものになってしまうかもしれない。だが、それよりも自身が表現したいものを優先すべきであると考えよう。






この文章形式での自問自答は自身の考えを時間的に記録するだけではなく、印象付ける手段としてもこれからも使うことができそうだ。

自己分析ではあるが、私はアイデアか表現かのどちらかが先行してしまい、理論がたどり着くことが少なくなっている。

















































































昔からであったが、それが異常性を含むことが無かった為に見逃していたのかもしれない。

そう、私は先天的な問題があったようだ。少しずつ認識して改善しようと考えている。

自分なりのマニュアルを作ればいい。自分なりの方法で考えよう。

もしこれで誰かを困らせてしまっているのであれば本当に申し訳ない。

Cold Sleep

卒業研究ログ 不定期に更新 気が向いたらやるスタンス

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